真田昌幸公具足写し

本日は10年以上前にお買い上げ頂いた、具足をご紹介いたします。

お買い上げありがとうございました。

こちら、
100527-01.jpg
※サムネール表示です。クリックすると大きめの画像が開きます。

真田昌幸公着用具足の写し。

もちろんお客様ご依頼の特注作品です。

全体的に金茶威しでキレイですが、各所にこだわりがございます。

画像ではわかりづらいかも知れませんが、胴は革張りです。

その革張りの胴に梯子の模様が描かれています。

兜は突盔(とっぱい)で、天衝前立が配されています。

実にいい具足です。

かなり前の話なので詳細まではわかりませんが、ホームページ掲載用の写真を整理していたらでてきました。
私(当ブログ管理人)の記憶では、千葉県の市原市の方へ飾り付けに伺った記憶がございます。


さて、その真田昌幸、優れた武将ですが、ご子息の真田幸村(信繁)があまりに有名になってしまったので影に隠れがちな人物ですね。
武田信玄の近習として働き、武田家没落後は織田信長に仕えました。
その信長が本能寺で斃れると、徳川氏の進行を度々受けるがその都度撃退しています。
その頃から篭城戦に非凡な才能を開花させていたのですね~。
徳川氏の侵略を豊臣氏の参加に入る事でかわし、豊臣氏が没して関ヶ原の役が始まると、徳川方の東軍に反旗を翻して上田城に立て篭りました。
関ヶ原へ急ぐ徳川秀忠の東軍主力を上田城で足止めさせ、ついには関ヶ原合戦に間に合わさせませんでした。
これが巧みな篭城戦パート2です。
結局、戦は東軍の勝利に終ったので、昌幸と幸村親子は処罰されるのですが、事前に長男の信幸を東軍に属させていたので領土は長男に安堵され、自身と幸村も死刑は免れて九度山へ流されました。
この辺がただ者ではないところです。
九度山では真田紐などを製造販売して、ひっそりと暮らしていましたが、慶長16年、病の為にこの世を去りました。
しかし、慶長19年、ふたたび乱が訪れます。
徳川氏と豊臣氏が手切れになり、九度山で隠棲していた次男・幸村(信繁)が大坂城へ入城します。
この時徳川家康は、「入城したのは親(昌幸)か子(幸村)か?」と聞き、家臣が「子(幸村)の方だ」と答えると安堵したと言います。
つまり、その当時では子の幸村より昌幸の方が恐れられていたのです。※特に徳川氏には…
幸村(信繁)は、大坂城の弱点を見抜き、城の南側に出丸を築きました。
その出丸は、攻めての徳川勢に甚大な被害をもたらし「真田丸」と呼ばれて恐れられました。
昌幸の篭城の才は、次男の幸村(信繁)に受け継がれていたのです。

おっと、ついつい話が長くなってしまいました。

篭城が上手で、領土安堵。
そういう願いを込めて、鎧をご注文される方も結構いらっしゃいますよ。
[ 2010/05/27 10:25 ] お客様の鎧 | TB(0) | CM(0)

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