太田姫稲荷!!

5月になって各地で春の祭りが開催されていました

こちらの方でも毎週末ごとに神田、浅草三社と活気づいておりました。
神田祭礼

楽器屋さんやスポーツ店に若い頃良く通って

慣れ親しんだお茶の水の傍らに或るお稲荷さん。

いつもの様にお参りをし由来書きを読んだところ、驚いたので書いてみました。

その名は『太田姫稲荷神社』です。
太田姫稲荷④

太田姫稲荷③

室町時代の末頃のお話です。

太田道灌の姫君が天然痘にかかり

京都山城国の一口(いもあらい)稲荷神社の霊験を聞きつけ使者を派遣し

平癒を祈願したところ姫君の病は全快したという。

寺社奉行だった道灌は江戸城の鬼門に社を建立し敬ったとの事です。

その後江戸城の鬼門除けとされ庶民の信仰を集めてきたそうです。

昭和6年総武線の開通工事に伴い現在の場所に移転しました。
太田姫稲荷①

太田姫稲荷②


この京都山城国にあった一口(いもあらい)稲荷神社がこれまた奥が深いのです。

かの小野篁(おののたかむら)さんが創建していたのです(^o^)/

小野篁さんと言えば。。。

京都六道の辻。。。黄泉かえりの井戸で有名なあのお方。。。

過去記事こちらをご覧になって下さい。
六道珍皇寺②

黄泉がえり井戸①

黄泉がえり井戸②

小野篁さんは遣唐副使にも選ばれた文武両道な優れた人物だったらしいのですが

上司と対立し嵯峨上皇の怒りに触れ流刑になってしまったのです。

この時に詠んだのが小倉百人一首に載っている

『わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船』

です。。。がその船が遭難しそうになった時

白髪の老翁が現れこう言ったそうです。

「君は才色世にたぐいなきひとであるから流罪になっても間もなく都に

呼び戻されるであろう。しかし疱瘡(天然痘)を患えば一命があぶない。

われは太田姫命(おおたひめのみこと)である。

わが像を祀ればこの病にかかることはないであろう」

そのお告げ通り篁さんは翌年都に呼び戻されたそうです。

839(承和6)年頃の事です。。。

そして自ら老翁の像を刻み山城国の一口の里に神社を創建したのです。

それを同じ名字である太田道灌の姫君の病を治した事がきっかけで

時を経て1457(長禄元)年

お江戸に勧請されたとは。。。なんともご縁があるお話です。

今回は神田界隈に関するお話でした。

[ 2015/05/21 15:36 ] 見聞録!! | TB(0) | CM(0)

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